珈琲焙煎者の観察

地下部屋の珈琲焙煎者

珈琲の記憶

常習

珈琲をよく飲みはじめたのは、7年ほど前からだと思う。

ちゃんと思い出すには、資料がある。

しかし、何年過ぎたかなんとか思い出さないようにずっとつとめてきたので、精確なことは記憶からよびもどさないでいい。

きっかけは、よく知ったつもりの長いつきあいの人が珈琲がすきだったことを知った、という記憶からだった。

長いつきあいだったが、珈琲がすきだなんてまったく知らなかった。

最期になってはじめて知って、たぶんあの人のなかのことは、ほとんどなにも知らなかったのだとわかると、珈琲を飲むようになった。

気がつけば、飲む。 考えれば、飲む。 なにもしなければ、飲む。

つまりは、なぜ珈琲を彼が好んで飲んでいたのか、わからないなと、珈琲を飲んでみていた。 あらゆる隙に。

それは、とまらなかった。

珈琲には、たしかにその成分に常習性があるかもしれない。

それも、あるだろうし、珈琲を飲むという行為に記憶としての常習性がある。

記憶としての常習性とは、なんだろう。

すなおに、「珈琲を飲むという行為自体に常習性がある」と書きたいところだが。

珈琲を飲みつづけ、そのわたし自身の常習性に、精神的依存症を発見していた。 だから、飲む。なにが見たいのだ?と、考える、その度に。

そうして、おそらくほぼ毎日、あらゆる時間に珈琲を飲みながらも、美味しい珈琲を飲もうという着想は、5年以上なかったと思う。 そもそも、「美味しい」と珈琲とにつながりを感じたことがない。

珈琲を飲めないという人に、よく会う。 そのときは、なるほどと思う。それは、当然であって、まったく疑いがない。

ごくたまに、「美味しい珈琲」という人に会う。 特定の珈琲を「すごく美味しい」という。 記憶している場面では、それは女性。

「この珈琲は、すごく美味しい」

と聞いたときは、記憶しているかぎり、わたしは、

「そうですか」

と応えている。意識的にそういっている。 このひとは、美味しいと感じて、珈琲を飲むのだな。つまり、美味しいから飲むのだ、とポインタを据える

「そうですか」

だ。 だから、必ずその状況では、「そうですか」と発している。

記憶のなかの瞬間へ、珈琲を飲むとき、思考をもどそうとしている。 もういまや無意識だが、ほんの一瞬だけ、珈琲を飲もうと思うとき、記憶のなかの情景と、そのときのおどろきが通りすぎる。

「ちょっと下の、売店の横にな、珈琲売ってるとこあるから、そこで買うてきてくれへんかな。珈琲やったらなんでもええ」

グランドピアノのある広い空間を通って、ドトールコーヒーまでおつかいに。 駅のなかのように沢山のひとがいる。 またエレベーターで10階以上上がって、病室までもどることを思うと、2つくらい買っておきたい。

2つのカップを持って、「はい」とわたすと

「おお、ありがとう。ありがとう。1つでいい。」

と言った。

「珈琲は、よく飲むの?」

「飲む。珈琲であればなんでもええんや。」

「すきだったっけ?」

「昔からや。」

「そうだったの?知らなかった。最近じゃないの?」

「おれも珈琲は、昔からよう飲む。でも、味は気にしてない。なんでもいい。ここは、下まで降りていかなあかん。酸素ボンベ引いて、エレベーター乗ってな。それで、我慢しとったところ。」

「そうか。じゃあ、も1つどうぞ。」

珈琲を飲もうと思うとき、ふっと記憶が一瞬思考に影響をあたえる。

わたしが、「美味しいね」というときは、だれかがいれてくれたり、くれたりするときに、そのひとに向けて発するのであって、味覚上の満足がことばにこぼれてでてくるのではない。 だから、ひとから「美味しい」と聞いたときは、「そうですか」といってから、順番に解釈する。 それは、味のことをいっているのか、だれかに対していっているのか。 「不味い」と聞いたときは、まったくうたがわない。

わたしにとって珈琲は「奇妙な味がする」ものであって、そこにはグレードがある。

また、珈琲は「スタートさせる」ものでもある。

Addiction

I think I started drinking coffee often,it was 7 years ago.

I can check when I started it.Because I have some datas.

However, as I have managed to keep on remembering how many years passed, I do not have to get back from my memory.